小説 昼下がり 第一話 『初夏の薫り』



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『初夏の薫り』 平原(ひらばる )洋次郎
     (一)
五月にしては、その日は暑かった。
地上より噴き出しそうな、一種独特な
初夏の薫りに喉元がむせ返りそうになっ
た。昨日まではさわやかな風が肌に心地
よかった。
  啓一は下宿を出て何するあてもなく、
ただ涼を求めて目の前にある川沿いを歩
いた。いまは散ってしまった桜並木を懐
かしみながらぶらぶらと歩いた。
 ついこないだまでは満開の桜を観に観
光客はゆうに及ばず、人混みでごった返
していた
今は閑散としている。「はかなきは桜の
花よ」と小さな声で口ずさんだ。
 桜の花は散り際が見事なだけに、より
 一層大衆に愛される。
 これが未練たらしく枯れ果てて散る場
合、皆に愛されるだろうか
川向かいの二階建ての古式豊かな簡易
旅館の一室から流れ出る、ナット・キン
グ・コールのバラード曲「TOO YOU
NG」のメロディーが耳をかすめる。
「若すぎる…か」と、ひとりつぶやいた
     (二)
 ―ふと、啓一の脳裏に小さなころの想い

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出がよぎった。
 小学校五〜六年の春休みの頃、友達と
ともに今は廃墟となった神社の屋根に
のぼり眺めた、遠くの山あいに見える
山桜の大群が目に浮かんだ。
 晴れた日には靄(もや)がかかり幻想的
であった。
 藁(わら)ぶきの民家がぽつんぽつんと
雄々しさを構える光景はまさしく「古里」
を感じた。
 広大なたんぼの一角には、ピンク色の
れんげ草がさくらの花に負けず劣らずと
優雅さを誇示している。
 一本一本のれんげにはさほど魅力を感
じないが、たんぼ一ヘクタール(約三千
坪)一面に覆(おお)いつくすように群が
る幾万のれんげには感動すら覚える。
    (三)
―カンカンカン、とけたたましく鳴り響
く遮断機の音に啓一は我に返った。
 歩くこと一〇分、いつも通う小さな駅
前に出た。
 豪華な洋風建築の外観が際立つ喫茶店
や、ガラス張りのハイカラな花屋。
 戦前に建てられ、戦禍を免れた通り抜
けの常設市場が建ち並ぶ。
 花屋の横に店を構える八百屋の軒先で

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は、青いタオルを頭に巻いた威勢の良い
お兄さんの呼び込みの声が響き渡る。
日曜日のせいか、やけに人が多い。
ワイワイガヤガヤ、今晩のおかずを買
い求めるご婦人方が買い物かごを手にし
て、せわしくうごめいている。
 ときに見かける年配らしき人の白いエ
プロン姿が陽に照らされ、やけにまぶし
い。
    (四)
 啓一は商店街の裏通りにある行き付け
の本屋へ向かった。多少汗ばむ。
 通りを抜けると人はまばら。先ほどの
喧騒(けんそう)は何処へいったのか。
 カランコロンと黒い鼻緒(はなお)の下
駄の音がやけにかまびすしい。
 蕎麦屋と間違えるほどの大きな暖簾(の
れん)をかき分け、奥行きが長く、間口が
狭い古本屋をくぐった。
 本屋の軒下にはほこりまみれのまんが
本が整頓され並んでいた。
 何を買うあてもなく、ただブラブラと、
カビのにおいがただよう店内を物色する。
 入口のレジに座っている、所々に白髪
が混じる色黒の小柄な親父がチラッと私
の顔を見るが、いつものように目を落と
し、週刊誌を読みあさっている

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