小説 昼下がり 第七話『冬の尋ね人。其の二 』



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      (三十四) 
 由美は大きく息を吸った。
 「ソ連が日ソ中立条約を破棄し、日本
に宣戦布告したのは一九四五年八月。
 英米に後れはとらじ、とソ連は焦(あせ)
っていたのかしら。
 まだ夫と軍部は、日ソ条約を信じてい
たのね。
 そのため当時の大本営は、満州国に戦
力の増強は行わず、専(もっぱ)ら、南方
方面に宛(あて)がわれました。
 ソ連軍の猛攻を受けた夫は、そこで戦
死したと訊かされました。
 そのときは一粒の涙も出ませんでした。
 私たち女子(おなご)は、そういう教育
で育ちましたから…。今は涙も出ます」
 由美の両肩は微(かす)かに揺らいでい
た。
 庭の小さな松の木に粉雪がうっすらと
積もっている。
 啓一は、小さな松の木が極寒のこの地
で耐え、生き抜いている逞しさに、無尽
(むじん)の生命力を感じた。
 「そのとき、私はソウルで高等女学校
の師範代として教鞭をとっていました。
 秋子も十八才、女学校を出て天真爛漫
(てんしんらんまん)な娘でした。

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 彼女は私の後を継いで教職の道へと進
みました。蛙の子は蛙ですね。
 そして敗戦。敗戦って云っていいのか
しら? 日本では終戦って云うのですね」
 少しの静寂が辺りを包んだ。大きな木
彫りの柱時計が七時を打った。
 外は真っ暗。部屋の明かりが庭を照ら
し、幻想的な雰囲気を創っていた。
 「啓一さん、もうすぐ食事が出来るか
ら、少し待ってね。お腹すいたでしょう」
 啓一は由美の話に共鳴したのか、空腹
さが気にならなかった。
 「途端に情勢は一変。
 私たちは、この国の産業基盤である学
校や病院、その他の社会資本も含めて、
貢献してきたという自負があります。
 しかし、それはごく一部の人たちの意
見。圧政と侵略、と表現する人が多々だ
ったわ。
 私の家も没収。仕方がないわね。
 戦争に負けた以上、運命を甘受(かんじ
ゅ)しなければー」
 啓一は黙って訊いていた。そして、知
性に富んだ由美に、人生の年輪を感じた。
 時折、小さく頷(うなず)くポニーテー
ルの彼女の、微かな香水の匂いが啓一の
鼻先を漂(ただよ)った。

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       (三十五)
 「その後、教職の道は閉ざされ、生活
の糧(かて)もあり知人の勧めで、このテ
ジョンに住む李一族の長男に嫁ぎました。
 周りからは猛反対されました。
 その夫も朝鮮戦争で北の捕虜となり、
行方知れず。
 今も生きているのやら、死んでいるの
やらー」
 由美は感情が高ぶったのか、眼には大
粒の涙が浮かんだ。
 ポニーテールの彼女もハンカチで目頭
を押さえた。
 「今は李一族の長男の嫁として、この
土地と家を与えられ、何不自由なく暮ら
しています。
 ただ気に掛かるのは、日本に居る私の
一人娘と、その孫たちのことです」 
 啓一は、秋子のその後が猛烈に気にな
った。
 「秋子さんのその後は?」
 啓一は訊いた。
 「ごめんなさい、啓一さん。私のこと
ばかりお話してー。
 秋子は、女学校の講師をしていたとき、
赴任してきた副校長と恋仲になって、二
人の娘をもうけました」

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